香りと健康の歴史中東編
■オリエントが生んだ東西統合医療
現在、中東と呼び習わされいる地域は、オリエントとも呼ばれ、小学校の教科書でも出てくる4大文明発祥地のうちの一つメソポタミア文明の発祥地でもあります。すでに、古代メソポタミアの時代から、農業も発達し、植物の利活用も大変進んでいたようです。また、簡単な蒸留や抽出もすでに行われ、宗教儀式や外科手術などに、没薬樹やケシ、甘草など現代でもよく知られる物をすでに活用していました。
また、そのユダヤ教やキリスト教が発生し、その儀式やそれにまつわる価値観からの医薬治療においてなどで、中東や中央アジアで産出する乳香、没薬などが積極的に活用してきていたことが知られています。
また、人類社会が広がるにつれ、ヨーロッパとアジアの交流の中継地として、洋の東西のハーブや香料が集まり、医療技術と共に絢爛に発展してきました。
特に、イスラム世界が発祥し交易の中心点となると乳香、没薬を各地に高価な値段で輸出を行い、その地域の豊かさに、ローマ人は「幸福なアラビア(アラビア・フェリックス)」と呼んでいたそうです。と、同時に、東の中国における高度なハーブの利活用や、西のヨーロッパ世界における、様々なハーブの利活用を吸収しました。当然、そのハーブの効用に対する全く相容れない世界観とセットで両方の考え方も流入したので、イスラム世界が成立した初期の段階では、その理解は混沌とした物であったと想像されます。
■イスラム初期の医療:モハメッドの時代
イスラム世界の初期の状況において、理解は混沌としていたものの、洋の東西の植物知識を統合し博物学的にどのハーブがどの病によいという、相関関係のリスト的なものは十分発達していたとはいえるようです。
当時の商人の子供でありイスラム教の創始者でもあるモハメッドは、非常に多くの医学的知識を備えていました。その証拠に、9世紀に著された、彼の言行を伝える伝承集である「真正集」には、医薬の記述だけで80条あるそうです。また、これやその他の伝承を加え「予言者の医術」という書籍ができるほどでした。
その頃の商人は、最も利を生み出す香辛料、すなわち当時の医薬品を流通させるためにどの香辛料やハーブが何に効くかを知らなければ商売になりませんでした。その商人の子供である、モハメッドがそうした知識に長けていたというのは自然なことではあります。
■アラビアンナイト時代の医療
アッバース朝が750年に成立しイスラム勢力の拡大と共に、勢力圏が広がりました。アラビアンナイトの主人公であるアッラシードはこの王朝の5代目のカリフ(イスラムの国での王の呼び方)です。
絢爛なイスラム文化の成長の時代ともいえます。
この期間に、多くの革新が生まれました。ハーブによる医療において最も大きなものは、錬金術の伝播による理論の体系化と精油生成技術の発達です。
アラビア世界は発達すると、まず学術拠点としてアッバース朝の5代目カリフであるアッラシードが、ギリシャ語の文献を中心とした図書館を建造。続いてその息子もこの図書館を拡充していきました。さらに、このギリシャ語の文献を次々と国家プロジェクトとしてアラビア語への翻訳を行いました。アリストテレス、プラトン、ヒポクラテスといった、合理的にそして論理的に物事を考え体系化する上で重要な自然哲学の文献の数々を、正確なアラビア語に翻訳したのです。その他にも当時の知識上の重要な数々の文献が翻訳されています。
こうした正確な翻訳書の数々は、医学の理論化・体系化に大きな進展に繋がりました。
こうした知識の中には錬金術もあり、後々の私たちまでに影響を与えているものとして、ハーブから精油を取り出す技術が大変発達しました。
また、この時期にアラビア世界の医療を発展させた2大家として知られるのは、アッ・ラーズィーと、イブン・スィーナです。臨床ではアッ・ラーズィー、理論ではイブン・スィーナといわれるほど、彼らの生み出した知識体系は非常に後々まで影響を与えました。
■新しいハーブの取り扱いへ。
ハーブから精油を取り出すというのは、この地域でも大変古くから行われているものでした。とはいえ、ただ煮出して揮発したものを冷やして集める程度であり、効率や成分を生成するという観点から見れば、一部の植物にしか使えず、場合によっては肝心の精油成分自体が壊れてしまうことも少なくなかったことは想像に難くありません。
錬金術は、理解の仕方こそ現代とは異なるものの、数多くの化学反応や物質の性質を研究し、相当な知識体系として成長していました。
特に、イスラムの錬金術は東洋の不老不死の薬(エリクシル)を探求することと西洋の卑金属から貴金属を得るための探求の二つの目的で発展しました。特に、両方の研究において、必須の技術として、蒸留技術は発展しました。
そのために精製手法としては現代科学で用いられるものと遜色のない技法が用いられていました。
そうした技法も用いて、動物・植物・鉱物と自然界のありとあらゆるものを蒸留し、その性質を分析していきました。その副産物として、様々な植物の精油成分を得る手法もまた確立されていったのです。
特に、こうして得られたバラの香水は、重要なイスラム世界の重要な産品として西はスペイン半島、東は中国まで、幅広く流通していたことが知られています。
■臨床のアッ・ラーズィー(865~925)
こうした技術発展の中、イスラム医学を語る上で不可欠な人物が活躍していました。それはアッ・ラーズィーです。
臨床のアッ・ラーズィーと呼ばれる彼の有名な著作は「医学大系」です。ヨーロッパでは「コンティネンス」と呼ばれています。これは、具体的な薬効を博物学的な形でまとめ上げたもので、全30巻の大作です。
この当時アッラシードやその息子たちの活躍によってまとめ上げられていた、膨大な翻訳書を活用はしたものの、それにのみ頼ることなく、実際に行った臨床の経験を重視し、また各文献の出典をきちんと明示した形で作られた、医薬辞典ともいうべき大作です。あまりの大作のため完全な写本はほとんど無く、彼の没後50年で2部しか存在しなかったそうです。
彼は、当時から流行していた精油精製などで得られた、植物精油等の化学的薬品を非常に嫌い、ハーブにおいてもまずは天然物そのもの全部を用いることを推奨していました。
そのため、彼の医療関連ではない著作は、調理法の手引き書など、いわゆる料理本が中心で医食同源的な思想を重んじていたようです。
新人の医者には「食べ物によって病気がなおすことができる場合には、薬は何も使うな。単純な薬で十分なときには、調合した薬を用いるな」と忠告するのが常だったようです。彼の手法のそれは、非常に中医的なものであり、ここアラブ圏にて、知識手法共に東西交流が盛んだったことが伺えます。
■理論のイブン・スィーナ(980~1036)
こうした、東洋的自然主義的で、実践的臨床を重んじる医療が発展した一方で、当時の最先端の理論と技術である、錬金術的な人体理解と精油精製技術を活用し、この時代に活躍した医学者としては、イブン・スィーナが代表といえます。
理論のイブン・スィーナと呼ばれる彼の有名な著作は、「医学典範(Canon medicinae)」です。この著作は、ギリシャ医学、中国医学、インド医学、ペルシャ医学、イスラム医学などを総合的にした医学大系を持つ自然医学の超大作でした。これは世界中に広まり、18世紀にヨーロッパ医学が大きな力を持つまでは、「医学典範」が医学系大学の標準的な教科書とされていたそうです。
「医学典範」の2巻には自然界の811種の医療に使われる動物・植物・鉱物が記載され、その中に、アニス、ニガヨモギ、アカシア、タマネギ、フタバアオイ、ギンバイカ等々のハーブが記載されていました。
こうした医学書を書き上げる一方で、こうした知識体系を吸収する過程において、彼も錬金術師としても活躍し、様々な現代の我々から見ると受け入れがたいような理論体系に通じ、批判的に理解し活用していたようです。そのためか彼の名を騙った、錬金術の教科書も多数流通したようです。
当然、こうした知識を活用し、精油の精製やブレンドなども処方方法として、同書や他の彼の著作には記述されています。
■多文化の交流地で、新文化の発祥地「中東」
アッ・ラーズィーは、医薬同源的発想の持ち主であり、その手法をその時代にあわせて発展させていきましたが、一方イブン・スィーナは蒸留を多用して、精油を精製。新たな医療を開いたともいえます。
医薬品においてハーブを通じ、イブン・スィーナを代表とするより複雑な手法で精製再合成によって用いる流れができていました。これは、新しい薬を発見したり開発したりするという一つの大きな進歩ともいえます。いわば新しいものを生み出す力です。そのもとは、もっと古い時代に起因しているものの、この時代に一度一つにまとまったといえるでしょう。
それと同時に、今まで用いられているものや、今まで使ったことがないものを、実際の臨床として用いることが始まった時代でもあります。いわば、アッ・ラーズィーの系譜ともいえるでしょう。その臨床検査に関する手法はまだまだ現代に及んではいませんが、実地を丁寧に観察し、その薬と症状の間の関係を丁寧に纏め上げたのも、画期的な状況だったともいえます。いわば、新しいものを検査する力が生まれたともいえます。
この時代において、新しいものを生み出す力とそれを検査する力が、初めて出会い、新しい医学体系と医学手法の発達に繋がったといえます。種化合物から臨床を経て、新薬や治療法を生み出していくという現代でも通用する医療のロジックを獲得した時期ともいえるでしょう。
多文化の交流地であり、新文化の発祥地「中東」は、ハーブと健康のありようにおいても東西文化の交流地であり、新文化の発祥地であったのです。
高橋 智巳 氏(北海道大学科学史研究室)
※本内容は独自の調査により、仮説として組み立てた史実に基づく歴史解釈であり、その内容の真偽については保証は致しかねます。
