香りと健康の歴史日本編
■多様な植物を愛でる文化の国
薬(くすり)の語源は、中国では「楽になる草」です。日本では中国から文字が入って来る前から「くすり」という音であり、その語源は「くしきもの(くすしきもの)」=「奇妙なもの」であったといわれています。いわば、人を治癒する神の霊力を持つものと考えられたのです。
同じ語源を持つものとしては、現代ではめでたい時に紐を引くと垂れ幕と紙ふぶきが散る「くすだま(薬玉)」や髪を解く「くし(櫛)」、また、酒も「くし」ですし、ものを刺す串も同じです。
どれも元は、木や草を原料とし、有史以前から生活の中で魔除けとして活用されてきていたと考えられています。一例をあげると、香り成分のある薬玉や草花を吊るすことによって、魔除けとしたり、腐敗防止成分の入った木で櫛を作ることによって、皮脂の腐敗を少しでも防止し悪臭(=魔)の発生を防いだりもしてきました。
これらは一例としても、日本人は、梅、松、杉といった木の下で寛ぎ、花見をし、豊かな自然の中の一年草を中心とした草のほのかな香りに、霊力を見出し活用していました。こうした風習の一部はいまだに暦の中の各種の神事や行事(七草粥や桜餅、菖蒲湯などなど)に見出されます。おそらく系統的な理論立てや理解はなく、魔除けになるものを一括りで「くすり」として、神事や儀式と密接に関わってきていました。
■香木という新貴族文化
こうした素朴な植物利用をドラスティックに変化させたのが、仏教の伝来と大陸文化の伝来です。予防や治療における彼らの「くすり」の概念は、「薬」へと合理的な理解へと変貌し、たどたどしい理解ながらも、仏教の教えと大陸の文化に密接に結びついた「漢方」の体系に組み入れられていきました。
同時に、中国大陸では、体臭や口臭の抑制・感情のコントロールのための香りや匂いに関わる様々な薬がありました。その原料として活用されていた香料原料の数々も、 日本は輸入していくことになります。日本での初のお目見えとして、様々な香の文献で示されているのは、595年、淡路島に漂着し「「其の烟気遠く薫る。則ち異なりとしてこれを献まつる(日本書紀)」と知られている沈香木です。 献上された香木を見て、聖徳太子が「これは沈香木である」と言い当てたところからすると、実際はもう少し前には渡来していたのかもしれません。どちらにせよ、多くの日本人にとっては、明らかに未知の香りであり、同時に高価な薬だったのです。
日本においては、こうした薬としての活用もさることながら、平安時代以降、空薫物(そらたきもの)、薫衣香(えびこう)という形で活用されていくことになります。
空薫物は今風に言うと、お部屋の芳香剤と言ったところでしょうか。沈香木や白檀を中心にその家特有の調合を行い、来客が来るときや、自分が楽しむときなどに部屋中にそれを焚き染めて、その香りを楽しんだりリラックスしたりするためのものです。枕草子で「心ときめきするもの」として「よき薫物たきて、ひとり臥したる」と表現されているように、その時代の女性にとっても、いい香りに包まれて横になるというのは、とても気分のいいことだったようです。
薫衣香は最近流行の、布から匂いを取ったり、防虫・抗菌をするスプレー剤といったところでしょう。服を香炉にかぶせ、その薫をしっかり焚き染め、その香り成分の防虫、抗菌機能を付加して服の長期保存を可能にしました。加えて、自分にとって気持ちよい香りを焚き染めた服を着ることで、ほかの人と会うときの体臭を隠すことにも役立ったようです。そうした実用性だけではなく、源氏物語の様々な段で見られるように、貴族の日常の中にも溶け込んでいます。空蝉の段は特に有名で、風で流れてきた源氏の薫衣香の香りをかぐことで、空蝉が源氏の訪問を、知るというシーンがあります。それだけ、貴族社会では、香というものが定着していたといえるでしょう。
実際の所、中国においても香木の数々は輸入外来品であり、こうした利用方法もすでになされていました。ただ、中国では日常文化としてここまでは定着しませんでした。日本では、実用的な漢方理論の導入によるインパクトはあったものの、香料というものは、まだまだ、日本人にとっては「くすしき」ものだったのかもしれません。
同時に、空薫物や薫衣香というスタイルは、日本人特有の外来文化摂取の力が見事に発揮されたものだったといえましょう
■民衆のための新医療としてのハーブ
同時に、漢方と仏教の理論の流入は、私達日本人に新しい数々の衛生観(や魔よけ観である「防」という考えとその理論)をもたらしました。そのうちの一つが入浴という文化でした。さらに、湯ノ花や様々な薬効のある植物を、蒸気や湯船に入れる(初期のお風呂は、蒸気浴が主流で湯船にお湯を張ったものではなかったそうです)ことで、その薬効を学んだのです。こちらは香木を用いるものと違い、ヨモギや菖蒲等、国内のハーブを大いに利活用できるものでもあり、世界に先駆けて非常に発展したといえます。まさに、入浴剤先進国ともいえます。
こうした理由もあって、香による香りと新しい植物の文化の広がりが、貴族特有のものとすると、こちらの入浴と植物の交わった文化の広がりは、貴族のみならず多くの民衆にとってもメリットのあるものでした。
とはいえ、多くの水を遠方から寄せて、多くの薪を集めて燃料とし浴槽いっぱにお湯を満たしたり、蒸気風呂を行なうというのは、それなりにコストも時間もかかることです。加えて、必要な調合の薬草を手に入れるのは非常に困難です。ですので一部貴族は自宅で入浴したり温泉地へと遊興できましたが、多くの民衆はそういうわけには行きませんでした。
しかし、奈良~平安~鎌倉と、入浴は仏事に深く関わることであり、お寺が「施浴」という形で提供していました。そこに入浴剤として、こうした薬湯が活用されてきました。
施浴そのものは、奈良時代の光明皇后の立願風呂の伝承に求められ、疾病の治療目的だったようです。さらに、薬湯利用が見え出すのは平安時代初期で、弘法大師が京都東寺で、洗い湯、蒸し風呂のほかに薬湯を設けたといわれています。鎌倉時代には忍性上人による奈良十八間戸において、患者向けに宿泊設備に加え一間半の薬湯の蒸気温室による治療なども行うような施設も生まれてきました。
このように疾病治療などにも利活用され、温泉ではなく人工的な薬湯や風呂(蒸気風呂を含む)を中心とした一大治療施設として、施浴を行なうお寺が発展していきました。日本の総合病院の先駆ともいえるものでした。
■その後の香木とハーブの変遷
こうした外来の文化を定着させるのを日本人は大変得意としています。お茶しかり、ミカンしかり。こうした漢方などの健康体系を定着させるように、「植物園」を作り、多くのものを国内で内製していったのです。しかしながら、香の材料である香木の数々や、薬湯に使う古来の調合にあった植物は、上手くは育たなかったようです。
そのためかどうかは分かりませんが、鎌倉以降、香の利用は、貴族を中心とした香料をブレンドして作った薫物の文化から、新支配層の武家による沈香木一種を炊いてその微妙な違いを楽しむものへと急激に変貌しました。
室町幕府において政所執事や六ヶ国の守護を兼ねた佐々木道誉は、高価な沈香木を大 量に一気に火に入れ、豪快に楽しんだと伝えられます。これは極端にせよ、多くの武人が、沈香木を出陣前に鎧兜の中に焚き染めるなどして、精神統一を図っていたようです。その後、この流れは、沈香木の産地の違いによる玄妙な香りの違いを当てる、日本独自の「香道」という高度な文化へと発展していきました。
沈香木一種ではなく様々なブレンドをして楽しむ薫物もだからといって死に絶えたわけではありません。取り扱いやすい形態である線香や焼香になり大衆に広く普及していきました。しかし、これらは純粋な仏事との係わり合いにおいてのみ利用されるような、香とも意識しない日用品として定着をしていきました。 どちらの流れにせよ、いわば、直接的な健康増進とは無縁なほうへと発展していきました。
他方、薬湯に関しては、今までの文化で培った各種の自生の植物や簡単に栽培できるものを活用し、江戸時代にはユズ、イチジク、クスノキ、オオバコ、ヨモギなどが使用されるようになってきました。と同時に、施浴という文化よりは、徐々に銭湯という営利のシステムに入れ替わり、総合医療施設としての入浴から、日常の爽快を得るための入浴へと変遷して行きました。
さらには、江戸以降、いろいろと今風にいうところの「風俗の乱れ」から一般の銭湯の規制が厳しくなり、その抜け道として薬湯銭湯という名ばかりの施設が現れるなど、とても健康への増進のための薬湯文化とは言えないものへと変貌していきました。
■現代に息づく古来の智恵
一度は衰退してしまったものの、芳香剤、スプレー剤、入浴剤などは日本国内にこそ源流を求められるともいえます。(実際は、このほかにも、この時代における香料の利活用の発展は数多く見られます。)
しかしながら、こうしたものは、明治期を過ぎてからしばらくは、西洋のもの、合成のものが貴ばれてきたように思われます。しかし、現代においては、天然素材によるものが再び脚光を浴びてきています。日本人が古来から持つ上手な植物と香りとの自然な付き合い方に再度学ぶべきものがあるのではないでしょうか。
高橋 智巳 氏(北海道大学科学史研究室)
※本内容は独自の調査により、仮説として組み立てた史実に基づく歴史解釈であり、その内容の真偽については保証は致しかねます。
