GWもあけて、皆様いかがお過ごしでしょうか。私自身は、ヒューマニング国際研究所のセミナーも順調に始まって、隔週での訪道もなかなか新鮮であります。そんなこんなの中で、ちょっと、地域活性化という視点でヒューマニングを見直してみていて、そういえば、この連続コラムでは事例を中心に書いているので、なかなか書くことは少ないのですが、地域活性化の「そもそも論」を少し書いてみたいと思います。


■地域活性化ってそもそも何だっけ?

 ここのところ、今はやりのTwitterというのをしていると、ちょっと興味深いつぶやきがありました。そもそも、地域活性化なんて必要なの?という趣旨のものです。地域活性化したくない人もいるんじゃないの、というご指摘は確かにその通りと思います。一日静かで穏やかな日々を過ごしたいという希望もあるでしょうから、そういう人には活性化はいらないよという議論もあるでしょう。でも、そもそも、地域活性化って何だっけ、という問いに行きつきます。本稿では一番初めから地域活性化を間接的に定義しました。で、第4話で以下のように文章にまとめました。
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地域の「活性」とは「地域に住む人が生き生きと元気に活動する状態」であり、活性化はその状態をより高めていくもの
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 要は地域に住む人が活性化したその総和ととらえるということです。でも、地域の活性化もいざ知らず俺の活性化を含めて本当にそんなことする必要あるのかということになります。


■で、何のために地域活性化するの?

 究極的には、地域に住む人すべての人の幸せのためということになります。「でも、俺、騒がしいのヤダし、人と交流するとストレスになるし」という人もいるとは思います。しかしながら、地域の活性化は、程度だったり内容は別にしても、やはり必要なんだろうなと思います。

「幸せのためにはまず自分がある程度継続的に生きていかなければいけない」

 ということがあります。そのためには、自分一人が単独で生きていけるわけでもないので、最低限の隣は維持できていなくてはいけません。そうすると、雇用なり助け合いなりが必要で、その他者の存在を必要とするがゆえに、彼らに生き残っていただかなくてはなりません。
 生きるための取引すらできない限界集落では、なかなか人は幸せになるどころか生きていくことすら苦しくなります。
やはり自分に必要な取引を維持するだけの相手先と収入源は必要で、ネット通販で完結するというわけにはいきません。
 そうすると、元気な街がいいとか、観光で活性化とか逸品で活性化だとかそういうのは議論の余地はあっても、やはり地域活性化そのものは一般には必要な行為である、と言わざるを得ないと思います。


■地域活性化は目的でもなければ目標でもない

 しかしながら、地域活性化そのものは目的でもなければ目標でもありません。というのも、究極的には人の幸せのための手段で、またその結果でしかないと私は考えています。地域の活性化は地域の住民の幸せづくりの活動の結果、地域が活性化していると外の目で言われることです。加えて、その活性化によって、周囲の人々が幸せに存在し、自分やその他の人に幸せ感を与えてくれるための手段でしかありません。

 地域活性化は目的や目標とすべきことではなく、あくまで、個人の幸せのための手段であり、幸せ追求の結果でしかないということです。そこで重要なのは、あなたがどう幸せになりたいのかということと、地域の人がどう幸せにその地域で過ごしたいかの相互理解です。その上で、自己が自己の幸せを追求しその結果周りも「活性化≒幸福化」されることが大事です。そして、周りが活性化されるということは、人間が社会的動物である限り幸せな状態の人間が隣近所に増えれば、それはまた自分の幸福の向上につながります。
地域を活性化することは、周りを幸福にすることであり、同時に自分が幸福に至るプロセスにかかわることです。

 

今回は抽象的になってしまいましたが、やはり本当の目的を見据えた活動ではないと、長続きもしないしコンセンサスも得られません。時には、「個人の幸福」みたいな大真面目で人に語るのはちょっと恥ずかしいようなことでも、ゆったりと頭を巡らせたり考えたりすることも大事かもしれません。


 

第28話 観光地になるには、地域の常識の裏返しに答えがある。


 ようやく暖かい感じの天気になってきました。内地も4月の頭は桜が咲けども寒い日が続いていたので、ようやく春という感じです。いろいろありますが、新年度は新年度ですので、終わったことやら、新しく始まることやら、変わったことなど、皆様もいろいろとバタバタしていると思います。
 わたしのほうも、PTA会長のお役が御免となり、下の子供が小学生になって、いままでお手伝いをしてきた市民活動センター(http://www.katch.ne.jp/~center/ )も、新しい市民交流センターへ移転してと、何やらバタバタとしています。おまけに、この三月末に作った、一般社団法人ヒューマニング国際研究所(http://funahasi.com/hri/ )の専務理事としてのお仕事もスタートしました。4月20日に同研究所主催のセミナーを開催しますので、多くの方にぜひいらしていただきたいと存じます。

■地域活性化に観光は役立つのか

 で、前ふりの宣伝事はこのぐらいにして、今回の主題の話です。「地域活性化に観光で」という話はそこかしこで聞きます。
 他方で多くの地域住民が、うちの地域には何もないから無理だぁ、と思っていることも珍しくありません。もっと言うと、やるとしたらなんか誘致したりしないと客なんか来ないよ、と思っていると思います。ちょっと歳の行った方であれば「そんなの誘致してもバブルのころのテーマパーク話みたくなって、最悪うちの地域が第二の夕張になりかねんじゃないか」なんて言うかもしれません。
 観光を選択するにせよ、しないにせよ、どうすれば観光地になれるのか、という話を少ししようと思います。

■観光の本質を考える

 観光資源がどうしたこうしたというような観光地化する議論の前に、そもそも観光って何だという話を考える必要があります。結論を言ってしまうと、「特定の土地に行くことで得られる非日常の体験」が観光の本質です。
 日常の物事は大切ですが、人間は常に新しいことを知りたかったり体験したいと思う動物のようです。観光に限らず、舞台や映画、TV、外食等々、ちょっとした普段の自分では体験できないことを求めます。観光というのは、あくまでも、場所を変えることでその場所でしか得られない非日常を求める行為なのです。
 他方で、そういう体験もあまり繰り返したり、十分予習を繰り返し過ぎてから行くと、すぐにその体験は日常になります。
 観光地を目指すということは、お客にとって非日常と思えるモノやコトのある場所を目指すということになります。で、さらに言うと、人間、リスクは下げたいでしょうから、事前にその非日常性を、潜在的なお客に事前にどんな非日常が有るのかを伝えて理解をしてもらわないといけません。

■観光地の作り方

 まずは、非日常のモノとかコトをどう用意するのか、というのが一つのカギになります。作戦は限られます。

1.テーマパーク作戦
2.過去に頼る作戦
3.私の常識はあなたの非常識作戦

 名称は僕が適当に付けたんですけど、多分、この三つぐらいです。一つづつ少し説明します。
 1の「テーマパーク作戦」は、皆さんには一番わかりやすいかもしれません。要はディズニーランドを作るという考え方です。明らかに万人にとっての、非日常をそこに構築して、来てもらうというやり方です。ところが、これは、バブルの末期に大量に失敗事例を生み出しました。理由はいくつかあるのですが、一番シンプルで大きい理由は、「飽きられた」ということです。アトラクションを一度体験すれば、ほとんどの場合、それはその人の日常の記憶に組み込まれます。そうすると、あるテーマパークが観光地で居続けるためには、次のアトラクションを投資して作る必要が出ます。アトラクションの投資がどこまで繰り返せるのかが重要になります。その財力を維持するほど客を呼び続けることが出来るのか、その初期投資の金はあるのか、という話になります。お金のない地方にとって最も現実味のない観光地化の手法といえます。
 2の「過去に頼る作戦」も、わかりやすいかと思います。最たるものは京都です。昔の人が作った建物とかを、そういう建物がない他の地域の人に見せることで、その人の非日常を呼び起こさせる作戦です。結構うまくいっている事例も少なくありません。ただ、これもすべての建物を見終わってしまえば、ある意味終わりです。そういう意味合いで行くと、お金が有っても歴史的建造物はねつ造できません(たまに発掘されることはありますが)ので、終わりはあります。予算的に無理はないかもしれませんが、やはり、難しいところです。ただ、これも実は次の3の手法をより有効に使う手段として、「過去に頼る」ことが出来れば話が変わってきます。
 実は日本の田舎で観光地化を目指すほぼ唯一の可能な手法が、この「私の常識はあなたの非常識作戦」といっても過言ではありません。これまた要は、最近はやりのテレビ番組で県民ショーってやつです。その地域の人には生活の一部で当たり前すぎるぐらい常識なのに、その地域外の人にとってはあり得ないというものです。これは今までの生活を維持さえすれば、その非常識は保持できます。例えばその一環に歴史的建造物と地域の人々の付き合い方が組み込まれていたりするとより強固な話になります。毎日の生活がそのまま観光資源となるわけです。いわば最もローコストな戦術といえます。しかも、生活の中にあるものなので、毎日同じことは存在しません。いつ観光に来ても何かが変わっているわけです。

■改めて、地域活性化に観光は役に立つのか

 ところがそこに一つ問題があります。それが変だ、ということに地域に住んでいる限り気がつかないのです。どうしても、変わったところはうちの地域にないから、やっぱり、東京みたいな何かをつくろうだとか、テーマパークじゃないと無理だよねという議論に流れがちです。そういう意味では、地域をどうやって情報化して外に見せるのか、というのが一つ重要になってきます。そこで、いわば美瑛の丘と前田真三という組み合わせという僥倖を待つしかないというのもある一面の真実です。そこまで昔ながらの生活をひっそりと繰り返さなければなりません。僥倖を待たないにしても、CGMなどを活用して上手に地域の構造やトピックスを上手に外に伝える努力をしなければいけません。
 でも、この状態は本当に地域活性化に寄与していると言えるのかというと、多分、地域をそのままにするという意味ではNOということになります。しかしながら、実は、二つの活性化につながる基礎的な変化を生む可能性があります。一つは、地域を地域として自覚するという効果です。自分たちの毎日の生活がどのように構成され何がいいところで、何が問題なのかを自覚できることと、その意識を共有できるきっかけになるということです。もう一つは、外からの視線と手が加わることで、必然的に地域を動かさざるを得ない状況になりやすいということです。
 実は、この三番目の作戦の最大のミソは、観光地化するプロセスがそのまま地域活性化のプロセスにつながりやすいというところにあります。観光地化が成功した結果として地域活性化がなされるという、地域においてはあまりにリスクの高い方法を選択する必要はないということです。地道な毎日をちょっといじることで、長期的な観光地化を目指しながら地域活性化を目指すというのも悪い選択肢ではないと思います。


 今回は話が抽象的になってしまいましたが、これでピンときたかたはかなり鋭いかもしれません。是非、無理のない地域活性化と自分の生活のバランスを考えて行動を起こしてみてください。

 

第27話 地域ブランド再考

 さて年度末です。中学校の卒業式なんぞに似合わぬ来賓などという立場でお邪魔したり、PTA会長として自分の子どもの小学校の祝辞を読んだりと、年度が終わるなぁといつも以上に実感できる年度末を送っております。他方で、本業がIT土建業の現場監督というあだ名がある仕事なので、どうしても年度末進行で動く公共事業のお手伝いで、相変わらず、「年度末は3月60日ぐらいまでありそうね」なんていう冗談が出るような生活でもあります。

■地域ブランドって何だろう?

 さて、そんなこんなのドタバタの中で、うちの地域で地域ブランドの新プロジェクトが始まりました。うちの地域では農作物に地域名を関してちゃんと商標登録を初めてしたといわれる「安城梨」があるような地域なのですが、それで飽き足らなくて、また作るらしいです。とか、他人事のように言っていますが、かなりどっぷり関わることになるので、立派に当事者なのですけど。さて、内容の紹介はまたに譲るとして、地域ブランドって何だろうとか、改めて考えるいい機会になりました。で、地域ブランドってなんなんでしょうね?
 過去の紹介した事例から行くと例えば、「丘のまち、イモのまち、美瑛」というのも、地域ブランドでしょうし、あと、近年積極的に進められている話で行くと「旭川ラーメン」というのも地域ブランドでしょう。その地域に対するイメージが地域ブランドでしょうし、他方で、地域名を関した商品というのも地域ブランドともいえます。

■ブランドって何だろう?

 地域ブランドってぐらいですから、地域とブランドの話なのですが、とりあえず地域の話はこれまで散々かいてますので、少しブランドのお話をしようと思います。

 皆さんにとってブランドってなんでしょう?
 好きなブランドはありますか?

 物を買ったり選んだりする時に、一つの指標になるものだとは思います。wikipediaの説明は端的で優れているかと思いますので、引用します。
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ブランドは元々、自分の家畜などに焼印を施し、他者の家畜と区別するために行われたものである。商標法で保護されている「ブランド」も同じような商品を見分けるために製造元が取り付けていた商標やマーク、タグなどの付属物に過ぎない。しかし、その商品が優れていた結果広く使われるに従い、付属物が「商品が良質だ」「使い勝手が良い」等といった判断基準を消費者に連想させるような働きをするようになる。また、その逆もある。
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なので、何らかのマークや指標は必要で、その指標が地域名称、というのが地域ブランドの一つの実体かと思います。では、その地域名から、消費者に優れたものだという印象をいかに与えることが出来るのか、というのが一つ重要になります。
 で、一般企業のブランドであれば、その一企業が一ブランドの商品に対して、統一的に、優良でいい商品を適切な広告戦略やCSRと共に販売を繰り返していけば、一定の期間を経てブランドが構築されるといえます。いわば、消費者に対しての約束を企業活動全体でしていけばいいということです。

■地域をブランド化する。

 ところが、地域をブランドとするということに、一つの難しさがあります。地域は色々な主体が、色々な考えを持って住んでいる場であるということです。地域というものが統一的に何かをするということはとても大変なのです。あと、それまで、その地域で暮らしてきた人々が作った地域の歴史やイメージが必ずついてまわります。
 例えば、弊社が立地する岩見沢であれば、岩見沢という地名そのものが持つ、湯浴み沢といわれて来た歴史が作ったイメージがそこはかとなく残っていたりします。ただ、他方で、農業従事者がたくさんいたり、交通の要所だったりとか、立場によって多様な生き方をしている土地でもあります。そんなところで、地域ブランドを統一的に構築するというのは、ほぼ不可能のように思われます。
 でも、実際に、地域名がブランドとして確立している地域も少なくありません。美瑛といえば丘のまちだったり、旭川といえば、動物園だったりラーメンだったり。その他にも枚挙に暇が無いことです。どうしたらいいんだろうという話ですが、難しいけれど簡単です。地域の人の大半の生活に関わることを、地域の人が普通に繰り返す中でしか生まれない、ということです。そうすることで、地域内で統一的に、何かをアウトプットすることが出来ます。と、同時に、安直に地域ブランドの恩恵だけを受けるということは、地域の人は許されないことになります。地域をブランド化する重要な役割を果たすということになります。
 そこで重要なのは、対外的PRの話では決してなく「地域の中でその地域らしくどう生きるか」というライフスタイルの話になります。実は地域ブランドの話で大事なのは、広告の話以前に、地域でどう生きるかの話に他なりません。

■生活をブランドに~オオカミの桃に学ぶ~

 地域ブランドを作る人に是非学んでほしい事例があります。北海道鷹栖町で作られている「オオカミの桃」です。結構有名なトマトジュースで、僕も好きで時々買って飲んでます。高いんですけどね。地域名称をブランドにしている事例ではありませんが、十分に地域が作るブランドとして成立する事例といえます。
 オオカミの桃が生まれた背景には、「トマトを戦略作物として作って、マーケティングをして味を決め広告戦略を組んで販売した」というのとは全く異なる商品作りがあります。あくまで、地域の人が地域の生活の中で、地道につくってきたものです。実は、オオカミの桃、もともとは、売るためのものではなかったのです。あくまで、町の政策で健康の町「鷹栖」づくりをめざし、その中で、町民の健康を町民自身でどうやって作っていくかという運動がおきました。当然食から健康を考えるということで、昭和52年ごろから食生活調査や料理教室などが始まり、ビタミンA・Cの摂取量が少なかったことが判明したり、冬季間は野菜も不足がちになることがわかってきました。そこで、町の水田からの転作作物で、食べきれないほどたくさんあるトマトを、トマトジュースにして、自分たちで飲んで健康になろうと、町民が加工施設ヘトマトを持ちより、製造を始め、冬季間の健康飲料として家族ぐるみで愛飲するようになったそうです。そうして、トマトジュースを「健康の自給自足」から、「健康への輸出」へと前進させ、昭和59年から販売をはじめたそうです。
 自分たちが毎日飲むものを自分たちで作る、というのが始まりだったわけです。大事なのは、利益率がどうのとか、東京で売れるかとか、そういう話ではなく、まず、地域に住む自分たちにとって必要かどうか、自分たちが欲しているかどうかこそが重要なのです。
 また、こういう活動の一環であれば、地域の人々が無理なくその商品を支えることも出来るということになります。


■自分たちの生活を再発見するのか新しく作るのか

 地域ブランドは他のブランドが一朝一夕で出来ないように、すぐに構築されるものではありません。それどころか、統一的に地域の人がみんなで動くことは難しいので、とても時間がかかる話であります。だけれども、他方で、毎日の生活の中に潜んでいるものであれば、それを再発見するだけですぐに手に入るものかもしれません。また、そういうものがなくても、鷹栖町のように、地域の問題を日常的に解決する手法を考える中で、新しく地域の人のライフスタイルに組み込んでもいいかもしれません。
 地域ブランドにおいて大切なのは、あわてず騒がず、短絡的な現金を求める話ではなく、地域をどう作るかという活動の余技として現れるべきものだということです。なので、じっくり、地域の問題を見つめて解決する活動を行なってください。ブランドと活動の本末を転倒させてはいけません。

 春になって暖かくなってきますが、寒い日も続くかと思います、何とか年度末を皆さま無事乗り切ってください。人の心配よりまずは自分の心配かな。ちゃんと今月の31日までに仕事終えないとな

参考URL
「ふるさとづくり'92」<市町村の部>ふるさとづくり賞
健康の町"鷹栖"づくりをめざして
http://www.ashita.or.jp/publish/furu/f92/16.htm

第26話 グローカル企業を考える。


 寒い日が続くなぁと思っていたら、あっという間に2月です。地域の活動であるPTA会長職も終わりが見えたと思ったら、急に会合が頻発して忙しくなってきました。おまけに、色々な本業も年度末進行で、バタバタする日が続きます。そんな中でも、来年度への新しい仕事やらなんやらと入ってきて、このコラムでご紹介できるかなという事例もそれなりにあります。それは別の機会に譲るとして、今回は、前回予告したグローカルな企業のお話を。


■グローカルってなんだ

 一般にグローカルって言うと「Think globally, act locally.」というスタンスを、合成した英語で、地球規模で考えながら、自分の地域で活動するということをいいます。まさに昨今話題の環境問題なんかは、まさにそういう感覚で行動すべき問題でしょうし、そうでなくても、フェアトレードにしても、児童労働問題にしても、ひいては国際紛争にしても、意外と手元の問題を適切に解決することで、そうした大きな問題につながっていくし、その解決にもつながっていくというわけです。
 そういう意味では、すべからく、理想的な人間像としてはグローカルに生きていったほうがいいとは思います。ま、人間は生きるためについつい目の前のことしか考えなくなるもので、なかなか出来るものではないんでしょうけど、努力ぐらいはしましょう。


■企業をグローカルに定義する

 さて、そういう出自のある言葉を使うわけですが、企業たるもの世界規模で考えて、その会社の存在する場所でアクションするなんてのはある意味普通なので、そのままでは何の意味も持ちません。前回の話を踏まえると、内貨の留保額を一定以上に膨らませるためには、企業に求められるのは、地域で活動しているんだけれど、グローバルに稼いでくれる存在というのが重要になります。
 もっというと、地域資源などを必須要素として、その地域に根ざして活動する企業であれば尚よろしいわけです。
 で、その企業の活動スタイルを、「市場のタイプ」と「商品(サービス)の原料」の二つの軸で切り分けます。市場のタイプは外貨(グローバル)を扱うか内貨(ローカル)を扱うか、原料のタイプは外部調達(グローバル)か地域依存(ローカル)か、になります。
 それで定義をすると、企業は4タイプに分けられます。「市場グローバル・原料グローバル」「市場ローカル・原料グローバル」「市場ローカル・原料ローカル」「市場グローバル・原料ローカル」です。
 では、内貨の地域留保を増やすのには、どのタイプの企業がもっとも好ましいといえるでしょうか。


■グローカル企業の条件

4タイプをそれぞれ、少し考えて見ましょう。
「市場グローバル・原料グローバル」は文字通りグローバル企業です。世界中どこでも展開できる事業です。IT産業なんかはまさにこれですし、ある種の製造業、流通業もこれでしょう。外貨としてお金が入ってきますが、外貨として原料調達に流れていくタイプです。こうなると、企業の立地はどこでも構いません。
「市場ローカル・原料グローバル」は、おそらく、外食チェーンやスーパーマーケットなんかはこれに該当します。個々のFCの市場は限られた地域内で市場は完結していて、原材料や暖簾代、サービスマニュアルなど、その地域の外から原料(リソース)を調達するものです。リソースの調達時に内貨が外貨として外に流れていく傾向があります。これまた、ある面で立地に関しては縛りがありません。

この二つに関しては、より有利な市場に近い場所に本社が移動する傾向があります。いわば地域に縛られないで経済活動が出来るメリットがある業態ではあります。いわば、上記二つは潜在的なグローバル企業と呼んでも差し支えないでしょう。

「市場ローカル・原料ローカル」これは、いわゆるコミュニティビジネスなんかがあたると思ってください。地域の問題を地域で解決するというのがそれです。また、小さな商店街の個人商店なども、仕入はあるとはいえFC店などと比べると、この傾向が強まります。大きなビジネスにはなりませんが、内貨が外貨になって流出しにくく、地域にしてみるとメリットが大きいものです。ただ、内貨の留保が増えるわけではありません。


■地域にとっての夢の企業

 最後に残ったもの「市場グローバル・原料ローカル」。これが、いわゆるグローカル企業です。この企業の特性は、外貨を稼いでかつ原料ローカルなので内貨が流出しないこと。その上、原料がその地域に依存すればするほど、その地域から出て行かないので企業が活躍すればするほど、地域の内貨の留保が増えていくという性質があります。
 ところが、日本の企業史において、こういう企業は余り多くはありません。一見、そういう企業に見えたとしても、少し時間がたつと、多くの企業が本社を東京などの大都会に移します。原料調達を多様化させることで、案外あっさりとグローカル企業はグローバル企業になってしまうのです。他方で、ヨーロッパなどでは、意外と本社機能を田舎の創業の地において頑張るところが少なくなく、きちんとグローカル企業として成立しています。
 ネイチャーテクノロジーも、ハーブ資源や冷涼で乾燥した気候等の地域資源に依存して起業しています。他方で、取り扱い品目の殆どが都市圏のストレス等を抱えた方々に向けた商品で完全にグローバルな市場が相手です。地域資源の調達活用も、グローバル市場に打ち勝つことも決して容易なことではありませんが、その先には、地域の内貨の留保への貢献や雇用の創出などがあり間接的な形で、地域社会の活性化に貢献できるものであると思われます。


■とはいえ、グローバル企業だけでも

 とはいえ、地域に住む人間に必要な諸サービスもあるので、弊社のみが栄えればいいという話ではありません。地域の商店街やまちづくりのNPOなど、いわゆるローカル企業の活躍も大切です。また、同時に、第24話でも書きましたが、グローバルな形で調達されてくるサービスも必要不可欠です。こうした諸サービスをバランスよく、かつ地域に内部留保が適切に残るように意識しながら活動することが重要です。
 やはり市民が日常の購買や労働において「Think globally, act locally.」にしていることが、当たり前かもしれませんが地域経済をきちんと形作るということといえると思います。地元のものを地元の人から買う、毎日世界の人が安心できて喜ぶものを作る。案外簡単なことかもしれません。

 神頼みでグローカル企業が生まれるのを祈るのではなく、そういう小さな蓄積がグローカル企業を生む素地になるのかもしれません。

 

第25話 内貨と外貨と地域と


 いまさらですが、新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。皆さんはどんな新年を迎えたのでしょうか。私は新年早々、北海道に帰省やらクラス会やらで帰っておりました。未来志向な正月というよりは、今年は過去を懐かしむ感じの正月でした。とはいえ、コラムは相変わらず未来志向で書き進ませていただきます。

■内貨と外貨

 昨年末のコラムで、外貨の獲得の話をしましたが、そもそも、外貨ってなんでしょう?国と国の間であれば、日本から見た場合他国の通貨だったり、他国のお金を指します。同じ日本国内で外貨ってのも変な気がします。
 それでも、現実の問題として、一定の経済圏というのは日本国内に存在しますし、その経済圏の間での、好不調で地域間の景気の格差が生じているのも事実です。その地域内でのお金の流通とそのお金そのものを、内貨と呼び、その地域間でのお金の流通やお金そのものを、外貨と呼ぶことにしてお話を進めていきましょう。
 昨年末のグローカルな企業体の大切さをご理解いただくのに、少々まどろっこしいですが、こういう話も重要ですので、お付き合いください。

■たまには内貨を考えましょう

 ついつい、田舎での地域活性化の議論をすると、観光客等を呼び込んでの外貨の獲得の話になりがちです。しかしながら、地域を活性化しようということであれば、実は、外貨獲得が必要条件でも、十分条件でもありません。
 たとえば、多くのコミュニティビジネスといわれるものの大半は、内貨を回して地域の中の手助けをするものですし、殆どの生活でのお金は目の前の人との取引で使われる内貨のはずです。そうすると、最終的には外貨として流通しても、基本は内貨ということになります。ただ、観光や通販のように直接外貨として流れて行くものもあります。
 まぁ、目の前の人との取引ということであれば、先のコラムで書いたように人のつながりの上に流れるのが現金ですので、ある程度の共通性は必要であれ、どの行為がいくらかということに関しては、地域内でコンセンサスが取れていればいいわけです。
 で、ここまで説明しましたが、これがどう地域活性化に関係があるの、という疑問がわいてきたかと思います。

■地域間で物価は違う

 ちなみに、当たり前ですが、アルバイトの時給というのは地域間で違います。もっというと、物の値段もそれぞれ違います。全国一律のファーストフードチェーンなんかでも、価格の地域間格差を認めて導入し始めています。このように、地域で物事の価格が違うということは、当たり前になってます。
 ここで、同じ行為なのに、Aという地域と、Bという地域でその価値が変わるという現象が起こる理由は簡単で、その地域でその行為の価値がその程度と認識されているからに他なりません。変な話、これ自体は、内貨だけで生きていく場合において、なんら問題はありません。なぜなら、相互に価値は納得づくで、その相対的価値も含め、その地域内でのそれぞれの価値がそう位置づけられているということに他なりません。
 ところが、ここでAという地域と、Bという地域でやり取りをする際にちょっとした問題が起きます。
同じ仕事の値段がAが高くて、Bが安い状態だとします。例えば、Aはかぼちゃが100円で流通している社会だとして、Bは50円だとします。一見すると、Bの社会のほうがよさそうですが、Bはカボチャ2個売らないと100円獲得できないのに、Aは1個の労働力で100円獲得できます。外の社会から何かを買う時には、Aの社会に住んだほうが有利といえます。

■高い内貨を維持するために

 安物買いを地域内ですると地域内でのものの値段は下がりますが、収入も減ります。それは、以前のコラムでご紹介したとおりの話です。だったら高く買えばいいのかというと、必ずしもそれは出来ないという話に行き着きます。というのも、無い袖は振れないので、高く買おうとすると借金まみれになるという話になります。そうすると、必然的に地域内にある通貨総量以上には流通しないということになります。
 ちなみに、地域通貨という手法もなくは無いですが、それであっても、きちんと外で価値のあるものに変換する時にそのロスやら、地域内の通貨高が足りないという状況に応じて、高く相手の仕事を買えないという事態はそんなに変わりません。結局は、その地域内にどれだけの通貨がきちんと滞留しているかが重要になります。要は高く買ってあげるためには、地域内により多くの通貨を引っ張ってくることが重要だということです。すなわち外貨をちゃんと引っ張ってこないと、相手の仕事を高く買ってはあげれなくなります。

■内貨の価値の裏づけに外貨の獲得は重要

 そうすると、地域内での仕事の価値は地域人の間のつながりだけで決められますが、地域間を越えた仕事の価値を決めるのには、それだけでは決められないという、やや非人道的な話になります。ここから先は、地域活性化をどう捉えるかということに依存します。が、地域内だけで全てを完結する地域というのはまず無いと思いますので、こうした価値決めを意識する必要があります。
 地域の活性化により金銭的に有利な社会である必要はありません。だけれども、そういう状況下のほうが、余裕をもって地域の活性化にあたることが出来ますし、維持をする上でもより楽になります。地域内での相互の仕事を高く買ってあげるサイクルを作るためには、外から通貨を入れ込んで地域の通貨総量を増やさなければなりません。そうすることによって、労働価値を高めることが出来ます。なので、地域の通貨流通総量を増やす必要はあります。当然、減らさない工夫も必要なんですけど。
 無い袖は振れないということで、諦めるのも手ですし、物価の安さを活用した地域活性化戦術も組めなくは無いですが、やはりある種の労働搾取を伴ってしまうことは否めません。


 で、この前振りが会って、ようやく次回から、グローカルな企業体についてのお話をしたいと思います。年末年始、気候も不安定でお忙しいかと思いますが、お体に気をつけてご自分の地域のために皆さんも頑張ってください。

第24話 笑って暮らせる地域づくりって


 さて、師走です。皆様も御忙しくお過ごしかと思います。私も成り行きでこの年末は、急にドタバタと離島めぐりになりました。オマケにPTAはあるわ、普通の仕事はあるわ。ただでさえ師走なのに、さらにドタバタとしております。仕事の内容はなかなか申し上げれませんが、離島というのは、風景も素晴らしいとことが多く、そういう忙しさを忘れて過ごせる出張であったりもします。

■金のない奴は一杯いるが、食えない奴は誰もいない。

 普通、今年最後のコラムなのですから、今年の振り返りというところが順当でしょうが、このようにドタバタしていますので、いつもの通りに、ダラダラと書かせて頂きます。
 で、離島話のついでのようで恐縮ですが、先日、佐渡島に渡ったときに、市議会議長様と昼食をご一緒させて頂きました。そこで、議長様がおっしゃっていたのが「佐渡はいいぞ、金のない奴は一杯いるが、食えない奴は誰もいない。笑って暮らすにはいい島だ」という一言が大変印象に残りました。
 実は、この一言に、地域を知る重要な視点が入っていると思えたのです。実際色々ヒヤリングすると笑って暮らせる、とはいいにくいですが、「食えない奴は誰もいない」ってのは結構本当ではないかと思います。

■都会と田舎

 佐渡に限らず、というか離島に限らず、日本の地域は過疎化に悩んでいるところが大半です。過疎化の原因は、若い人が減るから。若い人が減る原因は職場がないから。極論すると、職場がないから、金がないので若い人は出て行くというわけです。
 ところがこうした地域は、不思議と餓死したという話しはあまり聞きません。むしろ、都会の高齢者が餓死したというような話は若干ニュースで聞きますが、金のない地域で餓死はしないもののようです。件の議長様の言葉を裏返すと、都会というのは「金のある奴は一杯いるが、ちゃんと食える奴は誰もいない」という気もしてきます。

■田舎の秘密

 田舎は、金がないことによって、人のつながりでのみで食っています。農作物が取れたら隣近所に配り、料理を多くつくったらまた隣近所に配る。冬支度で困っている人がいれば隣近所で手伝い、春の農耕の準備で困ったらまた手伝う。それを相互に行う。人が社会的動物である以上、集落を形成しなければ過度に弱い生命体です。その集落を形成するためには、隣が生きていることが重要です。たぶん、動物としての本質で、こういうつながりを保持するアクションを行うものだと思われます。
 以前のコラムでも延々と述べているように、食うのには困らない田舎の状況というのは自然と出来上がるのです。田舎において、お金は集落間の取引や特殊なサービスを受けるための補助ツールでしかないわけです。

■都会の悲劇

 他方都会という状態は、それだけで集落を形成しています。むしろ集落を形成するより、集落内での効率化や、個々の有利さを求めて行動する余裕のある社会です。そこで、金を使って全取引を行えば、ある意味において平等で、公平で効率的なわけです。生きるための基盤になるモノやコトまでも、換金化して取引をすればいいわけです。変な話、それを買うためのお金を得るための社会への働きかけ(=仕事)をしていれば、ちゃんとお金を得ることができるので、普通に生きていけるわけです。
 ところが、都会の社会システムそのものは、お金がないと生きる基盤も買えない、という状況なわけですから、働けなければ食えなくなります。「働かざるもの食うべからず」をシビアに実現した社会システムなわけです。
 ある意味、都会は常時活性化しています。だって、常にみんな働かないと餓死するわけです。そうすると、みんな活発に活動せざるを得ませんから、活発に動いて見えます。でも、こんな綱渡りのように生きていく社会は本当に幸せといえるでしょうか。

■田舎の悲劇

 地域が地域で独立するためには、食料とエネルギーが必須といわれます。離島に限らず、ほとんどの場合、食料は良いとしても、エネルギーの大半は電気に変わり、この電気は重油で作られるのが一般的です。そして、この重油はお金でしか買えない特殊な財やサービスです。何がいいたいのかというと、これに限らず、気がつけば、田舎もお金がないと地域が成立しない状況になりつつあるということです。特に高度経済成長あたりで中途半端に都会化したところほど、都会のような特殊なサービスが生きるために必要だという思い込みを生みました。
 田舎と言っても、都会の延長に組み込まれて、都会が忍び込んできているのです。そうすると、働かないと餓死はしないまでも、凍死はするかもしれない状況になりつつあります。と、同時に田舎という仕掛けは現金を必要としなかった以上、現金を獲得する仕掛けを盛っていないのです。すると、現金を得るべく、多くの人がその地域を離れざるを得ません。そうやって、田舎の過疎化が進むわけです。そうして、いっそう都会は過密になるわけです。

■それは本当に悲劇なのか

 過疎が進むと、地域活性化という観点でみるときびしい事態ではあります。しかしそれは本当に悲劇なのか、とも思います。一度、金がなくても生きていける地域を再び構築するチャンスのようにも思えます。徹底的に、田舎化を目指すべきです。必要な特殊サービス、特にエネルギーは自給すれば「金がなくても生きていける地域」になれるはずです。
 そして、その上で「金がなくても笑って暮らせる地域」を目指すべきです。それは、やはり価値は色々ですが、一つには地域における将来の不安がないこと。言い換えるなら「若い人が地域に残って地域が継承されること」です。本当の将来の悲劇は年金がないことではありません。地域継承者がいないことです。
 そして、もう一つにはその若い人の明日の病気や怪我、子供の進学といったいまの不安がないこと。言い換えるなら「いざというときに、外からのサービスを買うことができる一定の資力」です。本当のいざというときの悲劇は、保険商品のポートフォリオの失敗ではありませんし、大量の株を持っているかどうかでもありません。即金をある程度持っているかいないかだけです。
 そのためには、確かに一定の外貨を得る雇用が必要にはなります。そうなると誰でも、その地域で笑って暮らせるわけです。地域の助け合いで餓死はしないし、沢山ではないけれど、ある程度職場があって、ちゃんと外貨を稼いでくれて、若い人もそこに働くことで、地域の人材が保全されるわけです。


 そこで、グローカルベンチャーのような存在が重要になります。その辺の話しはまた来年ということで。それでは皆様よいお年をお迎え下さい。

 

 

第23話 コミュニティの中心地ってどこだろう?

ph23_01.jpg 11月7日に今年のグッドデザイン賞が発表され、なんと、弊社の本社の立地している岩見沢市の岩見沢複合駅舎が大賞をいただきました。弊社そのものがこの駅舎作りに参画しているわけではないのですが、何せ、人口の多くはない街なので、一緒に市民活動を通じてまちづくりをしている仲間も参画していてとても嬉しい限りです。その仲間たちの一部は、当日の授賞式でやや恥ずかしい格好でTVなどに写っておりました。
 僕個人としては、愛知県という離れた地域に住んではおりますが、当地のNPOの理事でもあり、岩見沢のまちづくりに関わる一員として、大変誇りに思う次第であります。関わっているだけで何もしていないので、威張れるものではないんですけど。

■なぜ、いまさら駅なのか

ph23_02.jpg この駅舎の特徴は、賞をいただいたデザイン性もさることながら、並行して行なわれてきた、その外壁に使われるレンガに思いを託して駅舎作り参画できる「岩見沢レンガプロジェクト」があります。非常に多く(4,777名!)の人が、これに参画することでより駅舎に対しての思い入れを持つことが出来るものです。
  ただ、このモータリゼーション社会で駅舎に力を入れる必要ってあるの、という声も聞こえなくもないような気もします。大体、日本全国で道の駅という奴のほうが注目もされていますし、同じ駅なら岩見沢の国道沿いにでも道の駅を作ったほうが良いという声もあるとは思います。特に、僕の住む愛知県では、近所に新しい道の駅が出来たり、高速のサービスエリアが充実したりしていて、駅になんかほとんど投資していません。

 

 

■もともとの中心地ってどこなのか

 当然、こういう道の駅は大盛況ですし、今、注目されてはいます。通過者を相手に、その落とすお金を当てにするという発想であれば、これでもいいのかもしれません。確かに、鉄路というのも交通手段ですし、それにおける駅の機能として、通過者や観光客での売り上げというのを期待する側面があることも間違えありません。
 しかしながら、本当に駅の機能はそれだけなのでしょうか。ここに北海道、特に岩見沢の特別な事情があると思います。北海道の都市コミュニティの大半が、明治以降鉄路の発達で駅が出来ることによって、駅が起点で地域が構成されてきているという事情があります。小さい頃からそういう風に育ってきた自分にとって、内地の各地の駅の地位の低さにはある意味驚きを隠せなかったりします。実際に、日本のほかの地域において、コミュニティ構築の起点が駅であるということはむしろ稀なので、こういう地域の地域活性化事例と一緒くたに論じてしまうと、その辺を見誤ります。

■真ん中への思いをちゃんと真ん中に集める

ph23_03.jpg 岩見沢に限らず、北海道の内陸開発において、鉄道網が中心となり、その駅周辺に人々が住み生活を始めてきたという特徴があります。そこで、地域づくりにおいて自然なコミュニティ中心としての駅ということを、考えるのは実に合理的な側面があることは否めません。
 特に、岩見沢においては、産炭地への鉄道網の中心地であった場所であり、地域の人の交流の中心であり、産炭地各地の人の生活を支え、癒しを提供する場の玄関口としての駅でした。その駅をどうするかというのは、地域の人々にとって、地域コミュニティの中心をどうするのかという問題に他なりません。この問題解決に、少しでも多くの人が参加できるように工夫された今回の駅作りは、グッドデザイン賞をとったということ以上に、価値のあることであると思います。
 後は、賞をとったというだけではなく、僕の駅、私の駅、という視点で駅を中心としたコミュニティのありようをどう考えるかが、地元のまちづくりで問われるものです。地元の人々の粘り強い市民活動がこれから、この賞を更に地域にいかすことになるでしょう。

■二匹目のドジョウは駅にはない

 当然のことですが、今回のポイントは、駅舎であるということではなく、コミュニティの中心であるということにこそ、価値のあった受賞だと思います。多分、この地域活性化事例の二匹目のドジョウは、もう駅にはないと思います。大切なのは、自分の地域の、本来のコミュニティの中心地にあったものは何なのかを問うことだと思います。そしてその中心地に対し、どのように地域の人がかかわり、それを復権させるのかということに他なりません。それは、社寺仏閣かも知れませんし、田んぼの真ん中の木かもしれません。ひょっとすると、港かもしれません。そういう場所を良く見据えてみればいいのだと思います。
 岩見沢は、その機会をたまたま駅舎の消失という事件によって得ることが出来、更に上手にレンガプロジェクトとして生かしたものです。場所の意味を考えて、そこにあったコトを起こす。これは弊社の立地も含め、とても重要な要素なのです。

 皆さんも、寂れた町並みを単純に悲しむのではなく、自分の子どもの頃の行動様式なんかを思い出しながら、自分にとってのコミュニティの中心地ってのはなんだったのか、よく考えるとその答えは自然と見つかるものだと思います。


2009年度グッドデザイン大賞「岩見沢複合駅舎」
http://www.g-mark.org/archive/2009/best15/09D06001.html

第22話 地域を作る地域のイベントって


 さて、北海道はそろそろ雪虫も舞って、冬の足音が聞こえてきていることでしょう。ちなみに愛知は今日現在、日中の最高気温は25度。これじゃ、普通に北海道の夏と一緒です。日本列島というのは実に広いなと思ってしまいます。この日本で、地域を一様だなんてとらえるのはほぼ不可能だなと、自然条件だけを考えてもとってもよくわかります。

■別に日本列島を引き合いに出さなくても

 先日、私の住む市のPTA連絡協議会主催の「わいわい交流会」というイベントに参加してきました。まぁ、安城市内各地のPTA役員のプチしゃべり場という感じで、関心テーマごとに分かれて、うだうだお話をするものです。なんか知りませんが、僕等の班は「PTAと地域の連携」をテーマにウダウダしゃべる会になりました。班の司会進行は私が相勤めさせて頂きました。
 内容はさておき面白かったのが、同じ安城市内なのに二派に完全に状況が分かれたことです。こんな狭い市一つ取ってもその中に、さらに細かに地域という単位があって、それぞれの地域に個性があるということです。地域を語るのに、「○○市は」とか、「○○県は」なんて一くくりで論じても、実はあまり意味のないことなのかもしれません。

■で、いい地域ってのはなんなのか

 この二派の間の議論は、ある種の平行線なのですがいい地域ってのはなんなんだろうと思うわけです。二派の一つは、古くからの地域で、子供を地域の子供として叱ってくれるような地域です。下手をするとコンビニが一軒もないという地域だったりします。もう一つは、団地やマンション人口が急速に増え、都市型の便利な地域です。コンビニどころかショッピングセンターも複数立地されていて便利きわまりありません。
 後者の都市型地域ってのは悩み事は、メディアでもよく言われるところ話題で、地域のつながりが薄いということに尽きるのかと。人はいるけど、知り合いではなく相互に助け合ったり、子供の見守りをしてくれるわけではないということです。前者の田舎型地域の人々の話は、これに対して普通に聞いていると、すぐれた地域で、隣近所皆顔見知りで、子供の安心安全どころか、叱ってくれて教育までしてくれるという話です。
 一見すると、田舎型地域というのは非常にすぐれたいい地域という風に見えるのです。

■地域には共通の悩みもある

 実は、共通の悩みもあります。それは、僕等現役世代といわれる20代から40代の人間が著しく少ないということです。人口はいるんだけれど、地域の活動の戦力にはなりにくいという現実です。なぜかといえば、みんな仕事で忙しいわけです。
 実は、この問題は非常に田舎型地域には、都市型地域以上に深刻なダメージになっています。なぜなら、田舎型地域のそのつながりの力というのは、非常に多くの小さな地域内イベントの実施によって成立しているのです。なので、お父さんに限らず、お母さんも含め、この地域の小イベントをすべて参加するだけであっても、もはや限界点といえる状況です。
 なので、田舎型地域の現役世代にしてみれば、圧倒的に都市型地域のほうが住みやすかったりします。都市型地域の方は、町内会費などを数に任せて集めるので、変な話、地域イベントも金で解決してしまうという手法もあるのです。

■よりよい地域はどう作る

 現役世代が地域にもう少し帰ってこれる労働環境ってのは重要でしょうが、それを除いても、地域のつながりをどれぐらいの濃さでどれぐらいの数を作るということを、戦略的に考えていく必要はあるのかもしれません。地域のつながりの強さが地域イベントの開催の回数に比例すると言っても過言ではないと思いますが、多くの数をやればやり切れず、やはり地域から人がすり抜けて行ってしまいます。どこに、その必要な地域イベントを地域ごとに再設計するのかというのは、重要な課題だなと改めて認識した次第です。
 皆さんの地域はどうですか?
 地域のイベントを一度羅列してみて、ながめてみてはいかがでしょうか。

第21話 愛フェスに見る新しい公益の姿

 前のコラムでも、ちょこっと紹介した、日本初愛知発のファンドレイジングイベント愛フェスがこの6日に無事閉幕しました。二日間で2万8千人もの方が会場のある愛・地球博記念公園に来場いただいたそうです。ありがとうございました。
 西三河ブロックの責任者ではありましたが、この本番に関しては、僕は無役だったので一お客として遊びに行ってきました。なんたって、キャッチコピーは「楽しむことが誰かのためになる」ですから、まずは楽しんでこないと。

 

■ステージよりもNPO村が大盛り上がり

ph21_2.jpg    この愛フェスの基本構造は、投票券を買って入場し、そのなかで、ライブやイベント、はたまたB級グルメ等々を一日楽しんで、その合間で、NPOが集うNPO村に行って、今まで目にしなかったであろう、NPOな人々を色々観察して、気に入ったNPOに一票を投じて、入場料相当をその中の気に入ったNPOに寄付をするというもの。
    なので、本来的には、ライブやらイベントをやっているステージと、B級グルメ等の屋台が大盛り上がりで大混雑、となるはずなんだけど、意外や意外。いきなりNPO村が大盛況でした。うちも家族連れ甥姪連れで行きましたが、もう、子供らはNPO村の人々が繰り出す数々の小物作り体験から離れません。で、その合間に親の私達はNPOの方々とゆっくり話せるというわけで。

 

■NPOに力がついたのか、市民が変わったのか

ph21_0.jpg 正直、目論見が思わぬ方向に外れていたので、驚きでした。一つには、約80のNPO団体に参加いただいていましたが、どの団体も市民へいかにアプローチするのかということを、自分たちのできるリソースで最大限考えていた結果ではないかと思います。それがひとところに80も集まったのですから、それはそれは楽しい空気を作り出していたのだと思います。
 もう一つは、やはり市民の方も意識が変わったのではないかと思います。それは、公益への意識というのではなく、むしろ、華美な演出よりも実のある楽しみ、を選ぶようになってきたのだと思います。御買い得なライブに500円払う、という意識ではなく、500円なりに楽しめるであろう御祭りに参加しよう、という感覚だったのではないかと思います。
 やはり、特定非営利活動促進法施行10年という歴史は、市民団体、市民双方を育ててきたんだなという実感があります。

 

■地方の代表は自治体から市民へ

 このように市民も市民団体も育ってきているのに、未だに、すべての公益は税でまかなわれ、多くの市民団体の財源は助成金というかたちで税が循環してきている現実があります。地方・地域で言えば公益の代表者は市役所や町役場等の自治体であり、その自治体の仕事の一部を市民団体が担うという形でのみ、市民団体が公益を担う、という図式が見え隠れしています。
 愛フェスの一番の意義は、僕が思うに「税でやる公益、これがすべて」という図式を崩していくことではないかと。どんなに自分にとって価値のある公益性のある活動であっても、税でのみ動くとなると、議会のなかで合議の上でしかそこにお金が回らないということになります。だったら、税とは別にその公益にスコンと税の一部を事前にそこに寄付できればいいわけです。寄付控除という仕掛けが一般的にはそれに当たりますが、日本ではまだまだ金額も小さくあまり利用されていません。そのためには、三つ変わらなければなりません。
 一つは、国や自治体が変わらなければいけません。税でやれる公益には限度があるのだからその分だけ税でとってあとは取らない、という姿勢にかわること。
 もう一つは、特非等の市民団体が変わらなければいけません。自分たちの公益は助成金や事業費でしか実現できない、という意識をなくすこと。
 そして一番重要なのは、市民である私たちが変わることです。公益の代表者は自治体ではなく自分であって、自分の意思で税による公益と寄付による公益をつくるという意思を持つことです。
 地方の代表者は自治体や首長ではなく、そこに住む市民一人一人に代わるべきなのです。


ph21_3.jpg   愛フェスのファンドレイジング投票という仕掛けは、これを簡単に体験するための第一歩です。まずは体験を通じて、新しい公益の担い手としての自覚を、市民と市民団体にもってもらう重要な第一歩になったと信じています。
 で、一歩が一歩で終わってはいけないので、もう二回目に向けて関係者は動き始めているようなんですけど、僕もまた来年手伝うのかしら。
 新しいことをするって、楽しいけど、しんどいなぁ。


   

日本初、愛知発。ファンドレイジングイベント「愛フェス」
http://ifes.jp/

 

CA3D0036.jpg CA3D00370001.jpg※現在このコラムでは皆様のご意見・ご感想を募集しております。Eメールを送信いただいた方先着40名に、「愛フェスオリジナルエコバッグ」をプレゼント致します。

●5種類より1種お送り致します。(種類の選択はできません。何卒ご了承くださいませ。)

●寸法/縦355×横310mm●材質/コットン100%(無漂白)●マチ無し 

お名前・年齢・ご住所・連絡先(電話番号)・ご感想を明記の上、下記よりEメールにてお送りください。

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第20話 日本一イベントってなんだろう

 さて、皆様は七夕というお祭りはご存知ですか?
 そうです。怠け者ひこぼし君と、可愛いおり姫さんが年に一度天上で再開できる日です。うちの下の娘が保育園から聞いてきた話だと、七日七日にお会いしましょうって、おり姫が言ったのを、七月七日にお会いしましょうと聞き間違えたせいでこうなったんだとか。怠け者の上にオオボケ君なわけです。こう聞くと、こんなオオボケ夫婦のために日本中が一喜一憂しているのはなんと言うことなんだと思ってしまいます。

■どんなオオボケまつりでも

ph20_1.jpg で、また、さて、と始まるわけですが、このオオボケなものを祭ったおまつりとして、全国各地に七夕まつりが有るわけですが、私の住む安城市では、安城市民が一年をかけて準備して燃え上がるおまつりがこの七夕まつりです。驚くなかれ、この安城市にこの3日間で100万人以上の人が来るのです。札幌雪まつり級に客がいるなんて僕には信じられません。
 いつもはこのお祭り、人ごみがきらいなので、出張してスルーをするか、家族とチョット見物するかだけなのですけど、今年は「愛フェス2009」などというおかしなイベントに関わってしまったせいで、出展者として出店を出す側になってしまいました。で、先日9日にこのイベントが終了しました。もう3日間事実上の責任者なので出ずっぱりだったので未だにフラフラです。

■安城の七夕まつり

 愛フェス2009の話も書きたいところなのですが、今回は安城七夕まつりにみる地域活性化のお話を少し。というのも、この安城七夕まつりさして歴史の有るものでもなく、特に特徴の有るものではありません。更に言えば、飾り付けもすごいわけでもありません。なんだか悪口ばかり並べていますが、本当にたいしたお祭りではありません。
 でも、100万人も来るのはなぜなのかなと、他の七夕まつりとの違いを考えると、なんともいえないショボイ理由に思い当たります。それは、「自分たちが楽しんでいる」というのと「身の丈の集合体」ということです。
 安城の七夕まつりは、知らぬ間にほぼ全ての市民がその準備に携わります。人口が増えているけれども、それなりに自分のお祭りなわけです。当然、その余力と思い入れと気合に応じて、その参画の度合いは違いますが、基本的に参加しているみんなが楽しんでいます。僕の出しているブースの名義上の責任者(その上いくつもの責任者を掛け持ち)は、なんと最終日にバンドを組んで出演して楽しむ始末。とにかく、自分たちが出る側として徹底的に楽しんでいるのです。
 そして、誰も無理はしているようでしていないということです。それに加え、それぞれの人がそれぞれの立場で、リソースを提供します。商業者は商業者として、行政は行政として、市民は市民として、みんな自分のできることをできる範囲でしています。

■日本一のイベントをつくるには

ph20_2.jpg こういうスタンスにいつからなったのかは知りませんが、多分これが安城の七夕まつりを来場者数で日本三大七夕へと引き上げ、今年から「願いごと、日本一」というキャッチコピーのもと新しい市民参画の七夕へと市民が愛着を持って育てる七夕へと進歩させているんだろうなと実感できました。
 とはいえ、安城市民の実感がうすい僕には、まだまだ楽しみきれないし、身の丈でもない参画になってしまいました。とにかく、日本一を作るのは「無理せず楽しく」が本当のキーワードなのかもしれません。

 

安城七夕まつり
http://www.anjo-tanabata.jp/

愛フェス2009
http://ifes.jp/