第24話 笑って暮らせる地域づくりって
さて、師走です。皆様も御忙しくお過ごしかと思います。私も成り行きでこの年末は、急にドタバタと離島めぐりになりました。オマケにPTAはあるわ、普通の仕事はあるわ。ただでさえ師走なのに、さらにドタバタとしております。仕事の内容はなかなか申し上げれませんが、離島というのは、風景も素晴らしいとことが多く、そういう忙しさを忘れて過ごせる出張であったりもします。
■金のない奴は一杯いるが、食えない奴は誰もいない。
普通、今年最後のコラムなのですから、今年の振り返りというところが順当でしょうが、このようにドタバタしていますので、いつもの通りに、ダラダラと書かせて頂きます。
で、離島話のついでのようで恐縮ですが、先日、佐渡島に渡ったときに、市議会議長様と昼食をご一緒させて頂きました。そこで、議長様がおっしゃっていたのが「佐渡はいいぞ、金のない奴は一杯いるが、食えない奴は誰もいない。笑って暮らすにはいい島だ」という一言が大変印象に残りました。
実は、この一言に、地域を知る重要な視点が入っていると思えたのです。実際色々ヒヤリングすると笑って暮らせる、とはいいにくいですが、「食えない奴は誰もいない」ってのは結構本当ではないかと思います。
■都会と田舎
佐渡に限らず、というか離島に限らず、日本の地域は過疎化に悩んでいるところが大半です。過疎化の原因は、若い人が減るから。若い人が減る原因は職場がないから。極論すると、職場がないから、金がないので若い人は出て行くというわけです。
ところがこうした地域は、不思議と餓死したという話しはあまり聞きません。むしろ、都会の高齢者が餓死したというような話は若干ニュースで聞きますが、金のない地域で餓死はしないもののようです。件の議長様の言葉を裏返すと、都会というのは「金のある奴は一杯いるが、ちゃんと食える奴は誰もいない」という気もしてきます。
■田舎の秘密
田舎は、金がないことによって、人のつながりでのみで食っています。農作物が取れたら隣近所に配り、料理を多くつくったらまた隣近所に配る。冬支度で困っている人がいれば隣近所で手伝い、春の農耕の準備で困ったらまた手伝う。それを相互に行う。人が社会的動物である以上、集落を形成しなければ過度に弱い生命体です。その集落を形成するためには、隣が生きていることが重要です。たぶん、動物としての本質で、こういうつながりを保持するアクションを行うものだと思われます。
以前のコラムでも延々と述べているように、食うのには困らない田舎の状況というのは自然と出来上がるのです。田舎において、お金は集落間の取引や特殊なサービスを受けるための補助ツールでしかないわけです。
■都会の悲劇
他方都会という状態は、それだけで集落を形成しています。むしろ集落を形成するより、集落内での効率化や、個々の有利さを求めて行動する余裕のある社会です。そこで、金を使って全取引を行えば、ある意味において平等で、公平で効率的なわけです。生きるための基盤になるモノやコトまでも、換金化して取引をすればいいわけです。変な話、それを買うためのお金を得るための社会への働きかけ(=仕事)をしていれば、ちゃんとお金を得ることができるので、普通に生きていけるわけです。
ところが、都会の社会システムそのものは、お金がないと生きる基盤も買えない、という状況なわけですから、働けなければ食えなくなります。「働かざるもの食うべからず」をシビアに実現した社会システムなわけです。
ある意味、都会は常時活性化しています。だって、常にみんな働かないと餓死するわけです。そうすると、みんな活発に活動せざるを得ませんから、活発に動いて見えます。でも、こんな綱渡りのように生きていく社会は本当に幸せといえるでしょうか。
■田舎の悲劇
地域が地域で独立するためには、食料とエネルギーが必須といわれます。離島に限らず、ほとんどの場合、食料は良いとしても、エネルギーの大半は電気に変わり、この電気は重油で作られるのが一般的です。そして、この重油はお金でしか買えない特殊な財やサービスです。何がいいたいのかというと、これに限らず、気がつけば、田舎もお金がないと地域が成立しない状況になりつつあるということです。特に高度経済成長あたりで中途半端に都会化したところほど、都会のような特殊なサービスが生きるために必要だという思い込みを生みました。
田舎と言っても、都会の延長に組み込まれて、都会が忍び込んできているのです。そうすると、働かないと餓死はしないまでも、凍死はするかもしれない状況になりつつあります。と、同時に田舎という仕掛けは現金を必要としなかった以上、現金を獲得する仕掛けを盛っていないのです。すると、現金を得るべく、多くの人がその地域を離れざるを得ません。そうやって、田舎の過疎化が進むわけです。そうして、いっそう都会は過密になるわけです。
■それは本当に悲劇なのか
過疎が進むと、地域活性化という観点でみるときびしい事態ではあります。しかしそれは本当に悲劇なのか、とも思います。一度、金がなくても生きていける地域を再び構築するチャンスのようにも思えます。徹底的に、田舎化を目指すべきです。必要な特殊サービス、特にエネルギーは自給すれば「金がなくても生きていける地域」になれるはずです。
そして、その上で「金がなくても笑って暮らせる地域」を目指すべきです。それは、やはり価値は色々ですが、一つには地域における将来の不安がないこと。言い換えるなら「若い人が地域に残って地域が継承されること」です。本当の将来の悲劇は年金がないことではありません。地域継承者がいないことです。
そして、もう一つにはその若い人の明日の病気や怪我、子供の進学といったいまの不安がないこと。言い換えるなら「いざというときに、外からのサービスを買うことができる一定の資力」です。本当のいざというときの悲劇は、保険商品のポートフォリオの失敗ではありませんし、大量の株を持っているかどうかでもありません。即金をある程度持っているかいないかだけです。
そのためには、確かに一定の外貨を得る雇用が必要にはなります。そうなると誰でも、その地域で笑って暮らせるわけです。地域の助け合いで餓死はしないし、沢山ではないけれど、ある程度職場があって、ちゃんと外貨を稼いでくれて、若い人もそこに働くことで、地域の人材が保全されるわけです。
そこで、グローカルベンチャーのような存在が重要になります。その辺の話しはまた来年ということで。それでは皆様よいお年をお迎え下さい。
